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日本史に必要な世界史(1)『何故、日英同盟をイギリスが結んだか。』 [日本史・世界史関連]

さて、ますます規模が拡大している必要科目の未履修問題。その中でも世界史の未履修が多いです。その理由として多いのが「日本史や地理に時間を掛けたかった。」だそうです。詳しくはこちらをどうぞ。

http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/839040.html

さて、ここで重要なことは世界史未履修のあった高校の生徒が「世界史を受験科目にしないのだから仕方がない。」という声があることです。

ですが、歴史を授業以外でも勉強しているものとして、日本史を正しく『理解』するためには、世界の歴史も「知る」必要があるということです。それを知らないで日本史を『勉強』すると、教科書が垂れ流す歴史しかしらないことになります。

そこで私はこの場で日本史を正しく『理解』する上で必要な世界史を載せていこうと思います。

第一回は何故、イギリスは日英同盟を結んだのかです。教科書にはただ「日英同盟を結んだ」としか書いていません。日本には『満州での利権対立』というロシアへの対抗理由がありますが、ではイギリスは日本と同盟を結ぶ必要性やそれに伴う利益があったのかという話になります。


19世紀後半、ロシアには不凍港の野望が有りました。また、当時バルカン半島の大半はオスマン・トルコ帝国に占領されており、その中でパン・スラブ主義という『スラブ民族の統一と連合』を目指す思想による運動が起こっていました。その中でスラブ民族の国であるロシアはこれを利用し、不凍港を手に入れようとします。

そこで1877年、同時期にお越た反乱以来、弾圧されていたボスニア・ヘルツェゴビナを保護するという口実でロシアはオスマン・トルコ帝国に宣戦布告。露土戦争がスタートします。結果トルコは敗北。1878年に両者の間でサン・ステファノ条約を結び、ロシアはトルコからブルガリアをGETし、保護国(要は植民地)としました。

ところが!!それに反発したのは当時、すでに大国だったイギリスとオーストリアでした。そこで当時、発展の道を歩んでいたドイツのビスマルク首相仲介の元でベルリン会議が開催され、その後結ばれたベルリン条約でブルガリアはトルコ領に戻されてしまいました。しかし、それだけではありません。オーストリアがボスニアを獲得し、イギリスがキプロス島を獲得してしまったのです。つまり、ロシアのブルガリア保護国化に文句を付けたくせに、文句を付けた側がちゃっかり領土をGETしてしまっているのです。

これ以来、トルコへと領土を拡大しようとするロシアとイギリスは対立を深めていきます。

つまり、この頃のロシアは西ではトルコを東では満州へと領土を拡大しようとしていたのです。そんな中で20世紀にはいり、東で力を強めていた日本とロシアがその東の満州の問題で対立し始めます。そうなると、西のトルコでのロシアの影響力をそぎたいイギリスは東の満州でロシアの力を削ごうと考えるでしょう。

ここで、西でのロシアの力を削ぎたいイギリスと、ロシアとの戦争に備えて国力を増強させるための資金が必要な日本の利害が一致します。

こうして1902年に日本とイギリスは同盟を結びます。

ですが、イギリスもよもや日本がロシアと勝ちに近い引き分けに持ち込んだことは予想外だったようですがね。


このように、日本史を知る上でも世界史は知らなくてはならないものです。(2)を書けたらかこうと思います。なお、間違いなどがありましたら、ぜひともコメントに書き込んでいただきたいと思います。それでは^^/


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