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豊臣政権は何故滅んだのか? ~世襲制における後継者決定システム~ [日本史・世界史関連]

現在大河ドラマ「江~女たちの戦国~」が放送されている。個人的にはキャストや脚本にツッコミたい点が山ほどあるが、今回はそれを省略したい。最近の放送では朝鮮出兵や千利休や豊臣秀次が切腹になる過程が描かれている。このあたりについて考えてみたい。


豊臣秀吉は1598年に病死する。その後豊臣政権は豊臣秀吉による独裁から、後継者である秀頼を五奉行・五大老が支える集団指導体制に変化する。しかし、その中で力を伸ばしていった徳川家康とあくまで豊臣政権の維持を目標とする石田三成の対立が激しくなり、1600年に関ヶ原の戦いが起こることになる。


賤ヶ岳の戦い(1583)での勝利で織田信長の後継者としての地盤を磐石にした豊臣秀吉だったが、小牧・長久手の戦い(1584)で戦略的には徳川家康に勝利したものの、徳川家康を滅ぼすことはできなかった。そこで豊臣秀吉は徳川家康に豊臣政権における一定の地位を与えた。その後九州平定(1587)、小田原城の戦い(1590)で北条氏を滅ぼし、奥州平定(1590)を実現したことで豊臣政権は名実ともに天下統一を実現させることになる。


さて、ここからが問題になる。それは後継者問題である。
1589年に生まれた長男鶴松は3歳で亡くなった。このとき秀吉は後継者として甥の豊臣秀次を指名した。しかし、1593年に秀頼が誕生すると、どうしても実子である秀頼を後継者としたかった秀吉は秀次を粛清する。


豊臣政権の滅亡・崩壊は次の3つがあると考える。
①最大のライバルである徳川家康を滅ぼすことができなかった
→反対勢力となりうる存在を残してしまった。
②朝鮮出兵に多くの大名が不満を持った
③後継者問題でもめた。後継者氏名していた秀次を粛清した


この3つは確実に豊臣政権の寿命を縮めたと考えてよいと思う。


この後継者問題というのは現代でも独裁国家だけではなく、民主主義国家でも亡くなった政治家の後継者(地盤を引き継ぐ人)や企業の経営者なんかでもめることがある。後継者問題というのは失敗すると会社を傾かせることすらある。代表的な例としてはダイエーや西武グループなどが挙げられるだろう。逆に成功例としては武田薬品工業や角川HDなんかが挙げられる。


もしも秀吉が秀次を後継者のままにし、朝鮮出兵なんかしなければ、もしかしたら関ヶ原の戦いすら起きる余地はなかったのかもしれない。
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